山内です。新年明けましておめでとうございます。
先日のミーティングの報告です。
2012年初となるミーティングは、2時間の座禅からスタートしました。
1月14日(土)、メンバーは祖師谷大蔵のお寺、成城山耕雲寺で毎週行っている座禅会(http://kouunji.or.jp/zen/zen.html)にお邪魔して、お寺の方に座禅の手ほどきを受けた後、静寂の中で各々が禅堂の壁と向かい合い、座禅を体験させて頂きました。
なぜ今回の我々の「現場」に、座禅を選んだのか、というと、その趣旨は2点ほどあります。
一つに、日本人の教養として、座禅について身をもって知っておきたかったことがあります。座禅といえば今では海外からの評価のほうが、日本人からのそれよりも高いような状況であり、海外の人から馬鹿にされないためにも、日本人の一人として知っておくべきだ、という思いがありました。
もう一つに、日々の慌しい仕事から距離を置いた時間・空間で、ゆっくりと自分を見つめなおす時間をとってみることが必要なんじゃないかと思ったことがあります。仕事を始めてから出来上がってきた、「社会常識」の枠組みから大きく距離を置いた場所に身をおくことは、生活の大半を職場で過ごしややもすると視野が狭くなりがちな我々の精神の健康に取って、たまには必要なんじゃないかと思います
いざ実際に座禅をしてみると、頭の中で浮かんでくるのは、緊張しすぎた背中の筋肉の痛みと、仕事のことばかりだったのですが、座禅の最中のお寺の方の、「悪行に代わり善行を行うものは、雲間を離れた月のように世の人を照らす」といったインドの僧の言葉を解説する説法を聞くにつけ、これまでの自分を振り返ったとき果たして自分は善き人間だっただろうか、などと、これまであまり考えもしなかったことに頭をめぐらすことができたのは、とてもいい経験だったように思います。
今回の座禅に参加したのは、私たちメンバーを含め20人程度で(予想以上に人数が多く、驚きましたが)、座禅を組むためだけに集まり、ほとんどお互い口を聞く事もなく、最後に禅堂の掃除をして帰っていくという、すがすがしい様相でした。
耕雲寺では、また再来週の土曜日にはお酒を交えた新年会も催され、普段黙々と座禅されている方々と腹を割って話すことができるらしく、こちらにも個人的には行ってみたいなと思いました。
座禅に参加したメンバーが感じたこと・気づいたことは下記のとおりです。
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菱木:人生初の「座」禅。正座に慣れない世代の走りが、足を組み静止姿勢。正直キツイ。20分間、己の身体は解脱よりも、解放を切に願っていた。そんな状態で、行為中、ふと頭に浮かんだ邪念を記したい。悩ましい、ストレスフルな現代で、「座」禅はひそかにブームにある。いくつかの「座」禅推奨サイトをみると「思考を明快に」、「ストレス解消」、「自己を見つめ直す」といった各々の狙いをもち取り組む人が多いようだ。坐禅が本来の正式な書き字らしい。疑問を抱きつつ坐禅することにより悟りに至る臨済宗。坐禅そのものが目的であり、坐ること自体に集中する曹洞宗。宗派も2派あるという。が、「座」禅を楽しむ現代人の大半はそのいずれでもないように思う。坐にまだれをつけたように、元来のものに各々が意味づけをし、価値を見出す。とはいえ、作法は本来のそれと大きく変わらない。あぐらや猫背はもちろん厳禁。「根本(型)を変えず、周りの解釈によってそれ自体の新たな価値が再発見される。これにより時代を超えて、自然に脈々と残っていく(受け継がれていく)ものは多いのではないか。自分たちが取り組んでいきたい領域にも、この考えを活かせはしないだろうか。」などと結論のでない考えをめぐらせ、自分なりの座禅を終えた。
西川:西川:無心になろうと思えば思うほど、考えることが増えてしまう。自分をコントロールするということの難しさを改めて感じる機会でした。ビシッ!と頂いた励ましの痛みを忘れずに新年、新鮮な気持ちで営んでいこうと思います。日本の伝統の良さ、ともすれば見過ごしてしまい、いつの間にか私たちが廃れさせてしまっている一人になっているかもしれないと痛感もしたので、できるだけ勉強していきたいなとつくづく感じました。
N.E:邪の心を追い払い、無の心を追い求めたいと思っていましたが、なかなか難しい。。ただ、裸足での取り組み、お寺や宗派によって定められた姿勢・作法を演じることで、普段とは違い、気持ちが引き締まった3時間でした。意外とたくさんの方々が参加しており、日本の文化の1つが継承されている場面を垣間見ることができました。ただ、もっと人のいない静かな処で座禅したいと感じました。
鈴木:坐す。何もせずその場にただ座って居る。無心になってその場に座って居る。
初の坐禅は新鮮で清々しくあった。恐らく、何度やっても新鮮で清々しいのかもしれない。
無心になるのは、そして無心経験を認識するのは、至極創造的なことだ。無は虚とは違い、有のアンチでなく土台である。と思う。
一旦無に帰す、という考え方は(様式は様々ではあるが)例えば芸術においても「起点」としてしばしば用いられる。アヴァンギャルドなどはそうだ。改革、進歩の方向を見てのこと。いわば、創造的リセット。
全ては、無から始まる。
だから無心は清々しい。
年明けての坐り初め。また一年を走り出すにあたり、良い精神整理になった。
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終了後の反省会では、メンバーそれぞれが最近の自分の仕事や、今年以降の自分の目標を表明しあいました。
以下は、私個人としての昨年のが振り返りと、今年の抱負です。
昨年は暮れまで、何がなんだか分からないまま、がむしゃらに働いていたので、周りを見る余裕はなく、視野が狭かったような気もしています。
この正月少し余裕ができ始めたところで、地元に帰り、家族、地元の友人らと触れ合う機会をたっぷりととりゆっくり過ごす中で、遠い将来自分が死ぬまでを見据えた人生計画の策定を始めることにしました。
いざ自分の人生の可処分時間を計算し、やりたいこと、やらなければいけないことを書き出してみると、思ったほど時間は少ないことに気づき、焦燥感を覚えるとともに、長期的な視野で生きることの大切さに改めて気付きました。そして、おぼろげながら現時点で下記のような計画をもっています。
私は、超長期的には、後進を多く育て、共同体を活性化することのできる社会有為の人間を目指し、長期的には、自分の専門分野を持つプロになることを目指し、中期的には、その自らの比類なき専門分野を見つけることを目指し、短期的には今後の留学での勉強・仕事をがむしゃらにやること、を心がけます。そのために今は留学に向けた勉強・仕事のための勉強を行います。
上記の目標を達成する上でも、この「現場」から学ぶ会の活動は、優秀な同年輩との情報交換、切磋琢磨や、自分の知らない分野の自分への強制的導引、自分で組織をマネージメントするという経験、様々な人との出会い、など、自分の使い方次第で、他では得がたい多くのものを得ることができる「マジックボックス」になると思っています。
まずは、仕事で自己を鍛え、そして余暇としても自己を鍛えるという良い連鎖を今後より多く生んでいくべく、明日からも仕事を頑張りましょう。
それでは、本年もどうぞよろしくお願いします。